トップページ > ブログ > なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか
Category: なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の8

―旅のキーポイントは、あの頃を思い起こさせる演出が大切だ。―

連載シリーズ その8

「世界中の人が追い求めた黄色のコスモスが仙人堂に咲いた」

どのような花でも良いから品種を多く植えようと考えました。
私は、コスモスが好きでしたので、あじさいの周囲にその花を咲かせようとしましたが、 花のことは全くわかりませんでしたので、元酒田市議会議長で、 酒田花の会の会長の佐藤西治さんに珍しいコスモスを咲かせたい旨を相談しました。

ところが、佐藤さんが取り寄せてくれた種の中に不思議なことが起きたのです。

それは、仙人堂を訪れる観光客から「どうして黄色コスモスがここに咲いているの?」と驚きの声で聞かれました。
それは、世界中が追い求めたコスモスで、日本で品種改良に成功し黄色のコスモスがついに咲いたとテレビでつい最近紹介されたと聞いて、 私もびっくりでした。

ほんの3株の黄色コスモスと一緒に咲いた筒状八重コスモスに仙人堂を訪れる人々は、 感激でいっぱいでした。

DSC00446 DSC00440 DSC00439







観光客は、さらに多くのことを教えてくれました。
このコスモスの種をオリジナルの袋に入れて、売ったならば、小さな一粒の種からも仙人堂が全国に知られていくというアドバイスでした。
早速行動に移しました。
それは非常に売れ、そして購入したお客様からは、家に咲いたこのコスモスを見た近所の方から「どこで手に入れたのか」 「こんなに美しいコスモスは初めて見た」「追加注文はできますか」などお礼のお手紙をたくさん頂きました。

一粒の小さな種からも仙人堂が紹介されていったのだと考えますと、 今でも不思議でなりません。
「縁を結ぶ」ということは、人との出会い、花との出会い、風景との出会い…といったように、末広がりになり、 夢・ロマンいっぱいにするんだと改めて教えられました。

DSC00448 DSC00447 DSC00443







DSC00442 DSC00445







DSC00441 DSC00444







※チューリップ、紅花、そして、コスモス。花はどれをとっても難しいですね。
 最上川はコスモスの咲いているところまで増水するため、流されます。
 現在は,紫陽花だけになってしまいましたが、ブログで見る花は、仙人堂を訪れる人たちへの私たちの
 おもてなしの意味から植樹しましたことをご理解ください。

※次回、その9は、源義経の書状など、
 ロマンあふれる日本最大のスターである歴史上の人物義経関係を紹介します。

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の7

―旅のキーポイントは、あの頃を思い起こさせる演出が大切だ。―

連載シリーズ その7
「あじさいは見事に咲いた」

河川敷にあじさいを植樹するには、国土交通省の許可が必要です。
あじさいは根がはるので最上川が増水すると紫陽花が流され根のところがえぐられるために許可がないと植樹できません。
ようやく許可がおりたので、多くの方々に声をかけ「あじさい一株運動」を展開しました。
その結果、かなりの協賛を得て、
ついに、紫陽花の花を咲かせることができました。

仙人堂は船でしか行けませんので、あじさいの苗木を運ぶ作業は大変でした。 DSC00430








広い河川敷の雑草とのたたかいは大変な仕事でした。
DSC00431








ついにあじさいの花が咲き、観光客は感動でいっぱいでした。

DSC00432 DSC00434







DSC00433 DSC00435







DSC00437 DSC00436 DSC00438







子供たちがあじさいの周囲を散策し、紙芝居などを見る様子を見て、 仙人堂は完全に蘇ったことを印象づけています。
※あじさいの周囲の空間がもったいなかったので、コスモスを植えたのですが、  それは、なんとも言えない不思議なことが起きたのです。
次回(その8)をお楽しみに!!!

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の6

―旅のキーポイントは、あの頃を思い起こさせる演出が大切だ。―
連載シリーズその6「芭蕉が詠んだ紅花を咲かせたかった」


芭蕉は紅花を俳句に表しました。
「まゆはきを俤にして紅粉の花」 紅花こそ仙人堂に相応しい花と思うようになりました。
ところが、花に詳しい人から紅花は難しいと言われていましたが、 チャレンジしてみました。
それは、本当に難しい作業でした。


種まきからを苗を間びく作業 DSC00088







倒れない様に杭を立てる作業 DSC00089







紅花と遊ぶ DSC00090







紅花と記念撮影 DSC00091







紅花の側でバーベキュー DSC00387







辛い作業でしたが写真のように旅人が紅花と一緒に写真を撮り、 微笑ましい様子を見ると今までの疲れが一気に吹き飛んでいきました。
だが、素人の私たちにとって余りにも大変な仕事のため1年だけで終わってしまいました。

※船の本業の仕事の合間の花を咲かせるということは厳しいものがありました
 が、仙人堂のイメージになるのではと「紫陽花」植樹にチャレンジしていき
 ました。
 次回連載シリーズその7をお楽しみに!

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の5

―旅のキーポイントは、あの頃を思い起こさせる演出が大切だ。―

連載シリーズその5「花を咲かせたらどんなにすばらしいだろうか」


大自然の中にチューリップを咲かせたら新緑とのコントラストは、見事ではないかと考え、球根を大量に購入し、作業に取り掛かりました。

1年、2年目は見事に咲き乱れ、目を疑ったものでした
だが、3年目からネズミやモグラに球根を荒らされ、咲く花はわずかでした。
土の中に金網を埋め、その中に球根を植えたもののやはり効果は薄く、ネズミの餌になるだけで、 結局、チューリップは大自然の中に咲かせることは難しいと知り、諦めました。

だが、後でプラスになっていく原動力となっていったのです。

DSC00092 DSC00093







※芭蕉が詠んだ紅花にチャレンジしたが、、、
 次回連載シリーズその6をお楽しみに!

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の4

―旅のキーポイントは、あの頃を思い起こさせる演出が大切だ。―
連載シリーズその4「辛い日々が夢・希望に変わっていった」

社長・女性・男性 手の空いているものが、1本の鍬を持って船でしか行けない荒れ果てた場所に飛び込んでいったときのことは、 今でも忘れることができません。
それはただ勇気が必要でした。
まさに開墾作業と言っても過言ではありませんでした。

写真を是非ご覧下さい。
・竹の根を弱られるための作業(焼いて根を弱らせてから掘り起こす)

DSC00362







・竹の根を掘り起こす作業

DSC00364 DSC00363 DSC00365







・一方、茅(かや)を取り除く作業

DSC00366 DSC00367







だが、疲れきって川辺りの河川に空を仰ぎ寝こんでいた時、 夢が湧いてきました。ここにいろいろな花を咲かせたら仙人堂に訪れる人々はどんなにか 喜んでくれるだろうと考えるようになりました。

辛い日々が忘れていき、何故か不可能なことはないと信じ込み、 むしろやる気が出た瞬間でした。

※最初にどんな花を咲かせたのか
 次回(その4)にご期待下さい。


最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の3

DSC00360
↑イラスト 滝谷節雄

―旅のキーポイントは、あの頃を思い起こさせる演出が大切だ。―
連載シリーズその3「なぜこれだけの歴史が埋もれていたのか」


なかなか行政の賛同が得られないまま時間が過ぎていきました。焦る毎日でした。
ふと思いついたことは、東西の横綱である義経と芭蕉の仙人堂の歴史文化遺産の意義を強調することだと考えました。
その結果、ようやくご理解を頂き賛同を得たのです。
国土交通省に賛同書を添えた寄港申請が受理された時のうれしさは、今でも忘れられません。

DSC00274





義経と最上川の関係は全く知られていません。
「仙人堂の歴史が復活し、参拝できるようになれば、 義経の存在が最上川に浮上する。その結果、芭蕉・義経・最上川の関係が新しい観光に発展してくと、 ご理解されたからこそ、寄港許可を得ることができたのです。」

参考までに仙人堂の歴史・文学について説明します。

歴史・文学①

仙人堂の歴史を知ることが最上川を楽しくする。
仙人堂は、義経一行の常陸坊海尊が約800年前建設したと言われています。
祭神は日本武尊とも、また、常陸坊海尊とも芭蕉が紀行文「奥の細道」に紹介している仙人堂で、まら板敷山と記したその山も、 仙人堂から川向こう真正面に見え、芭蕉上陸の場所でもあります。芭蕉がここで「さみだれをあつめて涼し最上川」を 「さみだれをあるめて早し最上川」と推こうした、画期的な場所としても注目されています。
また、「最上川」という文字が最初に文学に表れたのは「古今和歌集」の「最上川のぼれば下るいな舟の  いなにはあらずこの月ばかり」で、その絶景は、まさに仙人堂から見た眺めと推測されます。
DSC00360







↑イラスト 滝谷節雄

歴史・文学②

時代こそ違うものの、東西の横綱義経と芭蕉のロマンの出会いの場所は仙人堂である。
義経は約800年前、芭蕉が舟から降りた清川(仙人堂から約8km下流)から帆かけ舟で最上川を逆上っています。
その白糸の滝を「最上川瀬々の岩波せきとめよ 寄らでぞ通る白糸の瀧」とその一行の北の方が詠んだことが 「義経紀」の中に記されています。一方、芭蕉は約300年前、義経追悼の想いを込めてみちのくに旅に出たのです。
もしかして、義経が最上川に来なかったならば、芭蕉も最上川に来なかったかもしれない。
つまり義経を語らずして芭蕉を語ることができないのです。
今、こうして義経と芭蕉の歴史的ロマンの出会いをした場所は仙人堂といっても決して過言ではありません。
時を越えた二人の出会いという歴史が、現代の車社会の人々を、数百年前の舟運時代にタイムスリップさせてくれるとことが、 海のように広く限りないほどのロマンを秘めている義経・芭蕉の仙人堂です。


DSC00361







↑イラスト 滝谷節雄

※寄港許可を得ましたがそれからが辛い毎日でした。
 次回その4をお楽しみに!

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の2

―旅のキーポイントは、あの頃を思いおこされる演出が大切だ―

連載シリーズその2 「行政の許可を得ることの難しさ」

DSC00071







仙人堂周辺の江戸時代に書いた絵図(弊社はこの場所を案内)

私は、少年時代、母親から「素直で地域に役立つ人になれ」と口癖のように言われてきました。少年時代を過ごした最上川が、自分を育ててくれたと思っています。
運輸省東北運輸局長(現・国土交通省東北運輸局)から運船許可を得なければなりません。とにかく許可を得るには非常に厳しいものがあります。

DSC00299







↑イラスト 滝谷節雄

ようやく許可を得た時でした。
最上川で事業を営むことは、”一企業というのみの考えではなく、半官半民のつもりでソフト面でも地域に寄与しなければという条件”で許可がおりました。

DSC00276






このような背景があったからだと思います。
700万円というこれだけの予算をかけたにも関わらず、活用されていないのは税金の無駄使いに過ぎないと考えたからです。

しかし、営利が伴う場合、仙人堂に寄港し上陸するには勝手にできません。海上運送法に基づいて、国土交通省新潟運輸局(当時)に寄港申請書を提出し、許可を得なければんなりません。
ですが、過去の諸々の状況がありましたので、簡単には寄港申請はできませんでした。

申請が長い間保留された後、ようやく申請が認められましたが、その前提として最寄りの各行政等の賛同書がなければいけないという事でした。
一度、過去に何かがあると、後者がやる気を出してもすんなり認められるものではありませんでした。

いくら大きな観光資源の要素を含んでいたとしても、弊社は民間企業のため、なかなか行政の賛同印は得ることができませんでした。
ただ、仙人堂の歴史的文化遺産の価値を長時間かけて各行政に説明していくしかありませんでした。

DSC00274







※それでは仙人堂の歴史的文化遺産とは、次回シリーズ3をお楽しみに!

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか

―旅のキーポイントは、あの頃を思いおこさせる演出が大切だ―
連載シリーズその1

01CIMG310602CIMG3106







私は、平成26年(2014)年末まで船上でマイクを持って60分のガイドを4万回達成しました。

仙人堂の歴史を蘇らせようと1本の鍬を持って雑草の中に飛び込んていく前(平成元年前)までは船上で、次のように案内をしていました。
「左手をご覧下さい。源義経の従者常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)が800年前建設した仙人堂です。 そして、NHK大河ドラマ「義経」(昭和41年)でもナレーションで紹介されました。芭蕉の旅は義経の足跡を訪ねる旅でもありました。また芭蕉の紀行文「奥の細道」にも紹介されています。」


DSC00068 DSC00070 DSC00072







だが、私の頭の中には、なぜ船から降りて参拝できないのかといつも疑問を持ちながらの説明でした。
そんな時、ある新聞報道が目に入ったのです。

04DSC00202







もう一方の舟下り会社が最初に行っていたのですが、仙人堂に上陸すると乗客の回転が悪くなるということで、寄港をやめてしまったとの報道でした。
戸沢村が昭和49年50年に約700万円をかけて造成したにも関わらず、活用されていないということを新聞を見て知りました。そして、戸沢村と観光協会からなんとかやってくれと(ボランティア)と強い要請があり、平成元年の「奥の細道紀行300年」から整備すると決断したのです。

だが、それから辛い日々が続いていったのでした。

※シリーズその2をご覧下さい。

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也