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なぜ仙人堂にこれほどまでに執着するのか 其の3

↑イラスト 滝谷節雄

 

―旅のキーポイントは、あの頃を思い起こさせる演出が大切だ。―
連載シリーズその3「なぜこれだけの歴史が埋もれていたのか」

 

なかなか行政の賛同が得られないまま時間が過ぎていきました。焦る毎日でした。
ふと思いついたことは、東西の横綱である義経と芭蕉の仙人堂の歴史文化遺産の意義を強調することだと考えました。
その結果、ようやくご理解を頂き賛同を得たのです。
国土交通省に賛同書を添えた寄港申請が受理された時のうれしさは、今でも忘れられません。

 

 

義経と最上川の関係は全く知られていません。
「仙人堂の歴史が復活し、参拝できるようになれば、
義経の存在が最上川に浮上する。その結果、芭蕉・義経・最上川の関係が新しい観光に発展してくと、
ご理解されたからこそ、寄港許可を得ることができたのです。」

参考までに仙人堂の歴史・文学について説明します。

 

歴史・文学①

 

仙人堂の歴史を知ることが最上川を楽しくする。
仙人堂は、義経一行の常陸坊海尊が約800年前建設したと言われています。
祭神は日本武尊とも、また、常陸坊海尊とも芭蕉が紀行文「奥の細道」に紹介している仙人堂で、まら板敷山と記したその山も、
仙人堂から川向こう真正面に見え、芭蕉上陸の場所でもあります。芭蕉がここで「さみだれをあつめて涼し最上川」を
「さみだれをあるめて早し最上川」と推こうした、画期的な場所としても注目されています。
また、「最上川」という文字が最初に文学に表れたのは「古今和歌集」の「最上川のぼれば下るいな舟の
いなにはあらずこの月ばかり」で、その絶景は、まさに仙人堂から見た眺めと推測されます。

 

↑イラスト 滝谷節雄

 

歴史・文学②

 

時代こそ違うものの、東西の横綱義経と芭蕉のロマンの出会いの場所は仙人堂である。
義経は約800年前、芭蕉が舟から降りた清川(仙人堂から約8km下流)から帆かけ舟で最上川を逆上っています。
その白糸の滝を「最上川瀬々の岩波せきとめよ 寄らでぞ通る白糸の瀧」とその一行の北の方が詠んだことが
「義経紀」の中に記されています。一方、芭蕉は約300年前、義経追悼の想いを込めてみちのくに旅に出たのです。
もしかして、義経が最上川に来なかったならば、芭蕉も最上川に来なかったかもしれない。
つまり義経を語らずして芭蕉を語ることができないのです。
今、こうして義経と芭蕉の歴史的ロマンの出会いをした場所は仙人堂といっても決して過言ではありません。
時を越えた二人の出会いという歴史が、現代の車社会の人々を、数百年前の舟運時代にタイムスリップさせてくれるとことが、
海のように広く限りないほどのロマンを秘めている義経・芭蕉の仙人堂です。

 

 

↑イラスト 滝谷節雄

 

※寄港許可を得ましたがそれからが辛い毎日でした。
次回その4をお楽しみに!

 

最上川船下り義経ロマン観光
芳賀由也

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