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小説「芭蕉と最上川」

芭蕉は果たしてコーヒーを飲んだのだろうか。

 「曽良さん、鈴木清風殿に手みやげを持っていかなければならないが、何がよいだろうか」
 曽良は、芭蕉の問いかけにしばらく何も答えられなかった。だが一瞬何かを思いついたように芭蕉に恐る恐る話した。
 「芭蕉翁、コーヒー豆はいかがでしょうか。茶会の後で出されたコーヒーのお味に大層お気に召していた様子だったのでそれで思いつきました」
 「ああ、そうか、よくぞ気がついたなあ、これはきっと喜ばれるだろう」
 芭蕉は、コーヒーを飲んだ人はまずいないだろうと考え、清風の手みやげに相応しいと思った。
 「曽良さん、これは、心のこもった江戸ならではの贈り物だ。すぐ用意してくれ」
 曽良は、さっそく江戸でただ一人コーヒー豆を扱っている人物の所へ出かけて行った。芭蕉とコーヒーの出会いは、不思議にもある茶会の席であった。
 「芭蕉翁、日本にコーヒーという珍しい飲み物が入ってきましたのでお飲みになってはいかがですか」
 「コーヒーって何んですか」
 芭蕉は、初めて聞くコーヒーの4文字に非常に興味を持ち無我夢中で話を聞き、出されたコーヒーを飲んだ。芭蕉は、一瞬苦い味に顔をしかめたものの香りと円やかな喉越しが大層気にいった。
 その時だった。江戸の重鎮らしき人物が芭蕉の前に進み、深か深かと頭をさげていった。
 「全国旅をされる芭蕉翁にぜひ地方にもコーヒーを普及させていただければうれしく思います。」
 芭蕉はすぐひらめいた。外国から入ってきたコーヒーのような商品を広めることも自分の役割ではないかと思ったのである。つまり国際貢献の一貫としてであった。
日本のコーヒー史をひもといてみれば、1690年頃長崎の出島でオランダ人が日本人に初めてコーヒーを給したと記されている。一方、芭蕉は、「奥の細道」へ旅立ったのは元禄2年つまり1689年である。時代的には何ら疑う余地がない。その頃芭蕉は江戸にいて、いろんな情報を耳にしていた。このような背景があればこそ芭蕉が、コーヒーを飲んだといっても決して不思議でない。むしろ自然といっても過言ではない。またコーヒー豆は腐らないので旅に持って行ける。

 「曽良さん、清風殿のいる尾花沢(山形県)に着くのは、5月(陽暦七月初め)ではないか」
 「ええ、ちょうど紅花が咲く季節です」
 芭蕉は、清風の厚い心のもてなしの手紙を見るたびに、紅花とは一体どのような花なのかと思いを馳せながら尾花沢への道中を急いだ。
 特に芭蕉は、鈴木清風の手紙で知った紅花の半夏一つ咲きは、義経の生涯と重ね合わせていた。義経は、若くして誰よりも早く華麗に舞い上がり人びとの目を一挙に引きつけた。
 だが兄頼朝の怒りにふれ、はかなくも31歳の若さでこの世を去った。義経のように他の紅花よりも一枝に一輪だけ早く咲き、そして早く散っていく半夏一つ咲き。芭蕉は、「眉掃きを俤にして紅粉の花」と詠んだほど非常に関心を持って尾花沢を訪ねたのである。(中略)

「仙人堂わき水コーヒー」の誕生について

平成元年「奥の細道芭蕉紀行300年」の時、埋もれた義経・芭蕉の仙人堂をどうしても甦らせなくてはと思い、一本の鍬を持って整備にあたりました。
「芭蕉が仙人堂でわき水コーヒーを飲んだ・・・?」というイラスト応募作品から  私は、仙人堂の前で泥まみれになりながら訪れる人に歴史を説明していた時でした。
「ガイドさん、すり粉木みたいのは何んですか」と聞かれたのです。私は、何のためらいもなく「芭蕉が持ってきたコーヒー豆をすり鉢で砕いた時のすり粉木ではないでしょうか」といいましたらその方(名古屋)は、納得した様子で私の所から離れていきました。
私は、コーヒー豆をすり鉢に入れてすり粉木でひいてみました。簡単に荒びきコーヒーになるではありませんか。
このことから物語(小説の本文)が始まりました。
今、行列ができるまで人気になったのは芭蕉からのメッセージがあればこそと思っています。
「私(芭蕉)はここでコーヒーを飲んだよ。仙人堂を訪ねる人に、一杯のコーヒーを通して水、つまり自然環境の大切さを教えてくれ」というメッセージがあればこそと思っています。

毎日新聞山形版に連載のエッセイ「仙人堂通信」から

毎日新聞連載・仙人堂通信「わき水でリッチに飲んだ」